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元治元年9月16日(1864年10月16日)

【京】征長副将松平茂昭、老中阿部正外を訪ね、徳川慶勝の征長総督拝任の有無及将軍の進発期を問う。
老中阿部、征長後の将軍滞坂による諸侯を集めた国是決定への春嶽の参加を促す。
老中阿部、軍艦奉行勝海舟の召喚・重用は保留する

【京】西郷隆盛、国許の大久保利通に、11日の勝海舟との初対面を報じ、「共和政治」を論じる
【京】吉井幸輔、国許の大久保利通に、11日の勝との会談を報じ、一翁・小楠・勝の議論(征長・幕吏弾劾・公議政体論)しか道はないと述べる
【江】幕府、唐津藩世子小笠原長行を赦免し、其官位を復す。

・9/15【京】御所九門が開かれる

☆京都のお天気:晴(『嵯峨実愛日記』)

>越前藩の周旋
◎対朝廷
■勝海舟召命
【京】元治1年9月16日昼過ぎ、伝奏野宮定功は、越前藩家老本多修理に対し、軍艦奉行勝海舟の召命について、幕府旗本を直接召すのはよろしくないので、一橋家士に相談後、返答をすると述べました。(本多は、勝の召命理由は、外国事情を聞くためとi言ったそうです)。

<ヒロ>
本多は、前15日、山階宮に参殿して、勝海舟召命を周旋し、宮の賛同を得ていました。なお、肥後藩士長谷川仁右衛門が、15日朝、勝海舟の使者から坂本龍馬の伝言として聞いたところによると、勝の召命については薩摩藩も周旋していたようです。(そして、召命の沙汰が出たら龍馬は16日に上京する予定だったとか)。海舟、上京する気まんまんです。

■有志諸侯会議による国是決定
【京】同日、内大臣近衛忠房は、越前藩家老本多修理に対し、有志諸侯会議による国是決定について、上書・建言は、実際に摂海に迫るまで待ち、その間、薩・越・宇和島・土佐あたりで定策を十分練るよう述べました。

忠房 いかにも定めておかねばならないが、今言い出すと「サワサワ」になってよろしくないので、実際に兵庫に来航するまで待ち、その機会に臨んで上書・建言をすべし。今のうちに、薩・越・宇和島・容堂あたりで、そのときの定策を十分打ち合わせ、今は言わず、機に臨んで言い出すべし。幕府でも今ではいたしかたない。

参考:『越前藩幕末維新公用人日記』p23、「長谷川仁右衛門京地事情書/伊達家雑録」『稿本』/綱要DB 9月9日 No16)。

◎対老中阿部正外

【京】元治1年9月16日8ツ(14時頃)、征長副将・越前藩主松平茂昭は、12日に上京した老中阿部正外を訪ね、徳川慶勝の征長総督拝任の有無及将軍の進発期を問いました
(本多修理・酒井十之丞が同行)

■征長総督・将軍進発
阿部老中は、総督問題については、慶勝の上京後に一橋慶喜とともに請けるよう尽力すると述べ、将軍進発についても、当月(9月)下旬には発途になるとの見込みを示しました。
茂昭 総督が未だ確定していないが、尾張前公はいかが仰せ立てられているのか
阿部 文通3、4回に及んだが今もって御返書がないほどで、未だ総督の命を請けられていない。しかし、近々上京されることは相違ないので、入京された上は一橋殿とともにあくまで(総督を引き受けるよう)勧告する決心である。
茂昭 大樹公の進発はいよいよ御相違あるまいか。
阿部 御進発になることは早くに決まったが、二百余年なかったことなので、万事調わず、第一、諸物頭は老人のみで、その組子も老幼混じっている。これを淘汰するだけでも容易ならざる事業であるのに、武器類も多くは古く壊れており、これを修繕するにも多数の時日を要する。非常に困却したが、追々手数を尽くし、本日10日までには大方整理ができるので、11日に行軍を試み、15日に大樹公が一覧され、その後、進発の期日を定められる筈である。多分、当月下旬には発途され、それより一日五里あるいは七里の行軍で大坂に到着され、10日ばかり同所に滞城の上、さらに姫路まで進まれ、姫路からは時宜により軍艦をもって広島城に進まれる予定である。
(枢密備忘のてきとう訳)

■横浜鎖港・兵庫開港問題
また、阿部老中は、征長成功後に将軍が長期に滞坂し、諸侯を集めて「断然」国是を決定するはずなので、そのときには春嶽に是非上京してほしいと願いました。
阿部 (茂昭が速やかに上京しあことを殊の外称賛し)大蔵大輔殿(=春嶽)も引き続き御上京されるだろうか。
茂昭 国許が無人であり、過般御許容になったように当分は上京はない。
阿部 長の一挙が成功した上は、大樹公が上洛され、国是ヲ定メラれるはずだが、その節は、「天下ノ諸侯ヲ召集」されるので、大蔵大輔殿には是非御上京を希望する。大樹公には、先年来、両度まで上洛されたが、多分の経費を要せられたのみで、些少の効益もなかったため、今回は「半年カ一年ニ渉リテモ大坂ニ滞在セラレ断然国是をサダメラルルナルヘシ
茂昭 近頃、外国人が軍艦で摂海(=兵庫)へ来るという風説があるが、そのような事実はあるのか。
阿部 そのような事はありえない。万一あるとしても政府(=幕府)に告げずに来ることはないので、政府が必ず諭止する。
(枢密備忘のてきとう訳()内は管理人)

本多酒井 ・・・(外国船が摂海に)来航した際の(幕府の)御処置はいかがでしょうか。
阿部 (外国船が)摂海に来るときには、十分策累を定めておかねばならぬので、橋公へも十分「ヲッパッテ」御談じ申し置く。しかし、ただいまその件を出すと、すぐに紛々擾々、泄濁、嫌疑が起こり、却って何も行われぬことになるだろう。また、自分どもが「体裁」を定めては、あちこちから意見が起こて論議の基となるので、将軍様がみられるべきである。そこで、摂海来航の策を定めることは今は申し出さず、摂海のことが起こったときに持ち出すことにいたしておく。
本多酒井 御定見は御尤もですが、(外国船が)摂海へ来航ともなれば、京摂の騒動は一方ならず、その騒ぎに乗じてまた暴論なども起るのではないでしょうか。
阿部 その騒擾は誠に困りいるが、言ったように、その時にならねば策は成しがたい形勢である。また、極めて秘事ではあるが、摂海に来航ということがないよう、今回はその心組で、外国奉行を召し連れており、もし来航の様子があれば、外国奉行により、死を以て=(命を賭して)制止する定策がある。
本多酒井 開鎖の議を定めねば治定には到り難いでしょう。策はいかがでしょうか?
阿部 それもまた、只今申し出すと騒擾紛々となる憂いがある。これについては、征長成功の上、将軍が親しく天機を伺い、成功を奏せられて、開鎖を始め、すべての「御体裁」を立てられるはずである。この件については、この度は十分「ヲッパッテ」いたすことであり、既に、一昨日、昨日と十分橋公へ御談詰致しておいた。
本多酒井 「橋公之御性質」もありますが、(慶喜は征長後の国是決定を)御聴納はされたのでしょうか?
阿部 いかにも「少し御当被成御性質」だが、今度は何でも十分打ち合わせも出来ている。橋公の御様子も余程変わられたので、拝謁されて御様子を伺われれば、春頃の橋公とは御替りになられたことは分明になるのではないか。
本多酒井 征長御成功の上の御定策はいかがでしょうか。
阿部 何分、その際は、是非大蔵大輔様にはお出で下さらねばならない。
本多酒井 大蔵大輔様は、御上京に及ばずとの御指図なので御出京にはなりませんが、無理に御出京にならないと申すのではありません。御出でになられるようにさえ御仕向けになれば、御出でを辞退はされないでしょう。ただ御持論の御採用なく、「御体裁」が替り、参与の諸侯も国許に御帰しになったので、大蔵大輔様のみが上京いたしても致し方ない次第は御明察ください。さて、今度の「御体裁」はいかがでしょうか?
阿部 いずれ「有名諸侯会集」で事を議するようにならねば叶わず、是非(征長)御成功の上は、十分に「御取行」つもりである
本多酒井 そのお積りには感服いたしますが、橋公と関東との御間(=ぎくしゃくした関係)もあられ、何一つ御十分に御主張がなされがたいと御模様もうかがわれ、関東に御委任されておられます。そのうえ、横浜にて頻りに鎖港の御談判、外国へ御使当も遣わされたとの説もあります。このへんの御処置・開鎖の御決議等はいかがなされることでしょうか。
阿部 それはこの度は十分やるつもり、まずそう申しても、今は言い難く、細工は流々にとやら、追々の事を見て下され。何分、今は騒擾を招かぬように、(征長)御成功の上なり、自分も今度は(朝廷への)御使に参ったので、(使者の趣を終えた後は)いったん(関東へ)引き取る予定だったが、最早(将軍の)御立の時まで日もないので、(滞留して将軍を)お待ち受けけ申し上げることにいたした。(=征長後の有名諸侯会議が実現するよう周旋する)
(本多修理日記のてきとう訳()内は管理人)
ただし、阿部老中は、勝海舟の召喚についてはそのうちにと保留しました。
本多
酒井
勝安房守殿は有名の人でもあり、これまで御承知の人でもあるので、お呼びになり御相談になれば有益かと存じます。
阿部 いずれ呼ぶと存ずるが、今は時節がよくない。今出ても仕方がない。追っ付け呼ぶ時節がある。
本多
酒井
それでは、遅速はともかくも、是非お呼びになられるということでしょうか。
阿部 きっと呼ぶはずである。
(本多修理日記のてきとう訳)

◎おさらい
(老中阿部再上京)
阿部は、7月末に将軍の使者として天機を伺うために上京しましたが、一橋慶喜に説得され、将軍急速上洛・征長指揮を促すために、会津藩公用人野村左兵衛らを伴って、海路大坂より帰府しました(こちら)。しかし、24日に横浜鎖港問題等を報告するために再度上京を命じられ、30日に品川出港しました(こちら)。阿部の上京について、会津藩江戸家老上田一学は9月4日付の京都への手紙の中で、表向きは外国の処置についての言上だが、その実は開港の見込みであると記しています。なお、別書で、野村左兵衛は諸侯会議による閉鎖決定(開国やむなし)を進言しています(こちら)。阿部は、海軍操練所の軍艦で9月9日に着坂(こちら)。12日に入京しました。(軍艦奉行勝海舟には9日、11日に面会こちら)

(茂昭の動き)
幕府は、8月4日、幕府は、茂昭に副将を命じ(こちら)、越前藩はこれを請けました。茂昭の出陣を19日とし、その事前準備として、慶喜や在京老中に軍事に関する廟議を確認し、紀州藩等の討手の諸藩と協議などを行うために、中根雪江を京都に派遣しました(こちら)が、16日、征長総督交替の知らせが届いたので(こちら)、茂昭の出発を一時見合わせ、名古屋に使者を派遣して軍務を協議させることにし、21日には改めて28日の出発を布達しました。ところが、27日、名古屋へ差し向けた使者が戻り、慶勝が病を理由に総督を辞退したため協議はできないとの返答だったと復命しました。茂昭が出陣しても、肝心の総督がいなくてはしょうがないとの議論もありましたが、既に諸藩に追討の命が発された今、たとえ総督が未定であるにせよ、副将までが出陣を遅らせては諸軍の人心に影響するとの議論もあり、やはり、予定通り出発し、上京の上、一橋慶喜や在京老中に「厳談」することに決し、28日に福井を出立していました。

茂昭は9月6日に着京(こちら)。翌7日に禁裏守衛総督一橋慶喜・老中稲葉正邦を訪ねると、総督確定・将軍上洛を説きました(こちら)。8日、越前藩重臣は、会津藩の働きかけもあり、江戸に使者を送って将軍上洛を建議することを決めましたが(こちら)、その前に慶喜の内意を確認することとし、9日、藩士本多・島田が慶喜を訪ねました。用人黒川嘉兵衛が応対し、建議は「大いに然るべし」と賛同しましたが、同じ日、一橋邸で行き会った永井は将軍進発が近いと話ました(こちら)。そこで、10日、中根が黒川を訪ね、確認したところ、黒川は関東のいうことは信用できないので、将軍上洛建議をすすめるよう促しました(こちら)。こうして将軍進発建議が決まった越前藩は、軍艦奉行勝海舟の協力を求めるために、青山小三郎・堤五一郎に茂昭の直書をもたせ、神戸へ向かわせました。(その際、茂昭の着京以来、越前藩に征長副将による出陣を働きかけていた薩摩藩(西郷吉之助・吉井幸輔)も同行)。勝海舟は江戸の事情に鑑み、将軍進発周旋の尽力は無益だと断りました。一方で、外交問題については、有力諸侯会盟による国是決定・条約交渉を論じました(こちら)

(春嶽の動き)
禁門の変後、一橋慶喜ら在京勢は、当初、春嶽を征長副将とすることを考え、上京を要請しましたが、春嶽は病を理由に固辞しました。8月中旬、春嶽は書を橋慶喜及首席老中水野忠精に送り、将軍が上洛し、諸侯を闕下に集めて開鎖の議を決し国是の根本を確立すべきと建議しました(8/15

<ヒロ>
近衛忠房・阿部老中が、ともに、諸侯会議や国是決定に理解を示しながらも、今はそのときではないという共通認識なのがおもしろいですね。

阿部が春嶽の上京を望んだのは、8月中旬の慶喜・水野老中への建議にもあるように、将軍上洛の上での諸侯会同による国是決定というのはかねてから彼の唱えるところだからだと思います。ちなみに、慶喜は、9月10日付の春嶽への手紙の中で(春嶽の意見は)「一々御尤千万」であり、将軍が進発して上坂ということになれば、尽力周旋の致し方もあると考える、と述べています。阿部老中のいった「半年カ一年ニ渉リテモ大坂ニ滞在セラレ断然国是をサダメラルルナルヘシ」というのは、阿部と慶喜と話した結果、でてきたことなのかもですね?ただし、越前藩は、この春の朝議参豫会議をぶち壊しにした慶喜のことがよほどのトラウマになっている様子です。そりゃそうですよね。(関連:■参豫会議朝廷参豫会議二条城会議 参豫会議解体:慶喜/幕閣vs久光・春嶽・宗城))。

勝海舟は阿部老中を称賛しているのに、阿部は「そのうちにね」とつれないです。

それにしても阿部が二度もいった「ヲッパッテ」ってなんていう意味でしょう?前後関係からは頑張るみたいな意味?

参考:「枢密備忘/征長出陣記」『稿本』(綱要DB 9月16日条No 4)、『続再夢紀事』三p311、『越前藩幕末維新公用人日記』p18-20、『勝海舟』(松浦玲、筑摩書房)p268(2018/6/9)


>薩摩藩
【京】元治1年9月16日、西郷吉之助(隆盛)は国許の大久保一蔵(利通)に書を認め、去る11日の軍艦奉行勝海舟との初対面の様子を報じ、「共和政治」をやり通す必要を力説しました

※9月11日(こちら)で一部紹介した手紙です(青字部分が新しい部分。段落わけはてきとう)
越前候が去る6日、御着京にあり、すぐに村田巳三郎等に問い合わせたところ、非常の備えで御出張になったわけではなく、平時の御上京ではあるものの・・・是非、征長の儀は、総督を待たずに御出兵になるよう・・・進言したが、振り切りかねる様子に伺われた。畢竟、御国内(=藩内)の「混雑」もあり、「断然の御策」ができかねるようだった。

そうしたところ、越前藩から、幸い勝安房守殿(=勝海舟)が関東へ下向するので、両藩から将軍上洛に尽力してくれるよう願い入れてはどうかと言ってきた。すぐさま同意し、(11日に)吉井(幸輔)と私が下坂した。越前藩は二人(=青山小三郎・堤五一郎)派遣され、越候(=藩主松平茂昭)の直書を差し出された。

(勝に)両藩が段々迫ったところ、幕府の内情も打ち明けられた。(それによると)「誠に手の附け様」のない形勢となっている。畢竟、幕吏は、今回の一戦で「暴客」(=過激派)が恐縮し、「もふは身の禍を免」れた心持で「大平無事の体」となり、「奸威」が起こり立つ向きらしい。しかし、幕吏もかなり老練で、どこに「権」があるかは知れぬようにし、「一同して持ち合」っている姿である。その中でも諏訪因幡(=老中諏訪忠誠)と申す者が「魁首」らしい。色々「正義」(=正論)を主張すれば「御尤も」と同意しながら正論の者を退けるので、とても「尽力の道これなき」だという。

それでは「奸吏」を遠ざける策はないかと問いかけると、一小人を退けるのは訳もないがそれを「受け取る」(=引き受ける?)者はない、つまり議論を立てる者は倒れる外ないとのことで、解決策はないということである。諸藩が力を尽くしてはどうかと、さらに迫ると、それは引き受ける人物がいれば行われもするだろうが、薩摩からこのような議論があると役人に持ち出せば、すぐに薩摩に騙された人物と言われ、落し付ける様子なので、諸藩が尽力しても「無益」だとの説で、いたしかたない次第である。

幸い阿部老中が上坂しているので人となりを訪ねたところ、「余程」ほめられた。何か策を勝氏より授けられた様子で、(阿部が)一昨日(ママ)、京都に着いた。勝氏も上京のつもりである(※1)。この機会に、私も(阿部)閣老へ(面会を)申し入れて置いたところ、昨夜(15日)、篤と談判いたすよう、書面をもって申し越されたので、是非拝謁を願い、一問答はいたす含みである。阿部が「其人」(=依頼すべきひと)であれば諸藩より助け、幕奸の四・五輩は断然勅命をもって打ち落とす策でもなければ、とても埒が明かないと考えている。(阿部に)その気力がなければ、必ず無策に「踏」(陥る?)ことであり、口を閉じようと考えている

勝氏に初めて面会したが、実に驚きいる人物で、最初は打ち叩くつもりで出向いたが、とんと頭を下げた。どれだけ智略があるか知れぬ塩梅に見受けた。まず「英雄肌合」の人で、事の出来については佐久間(象山)を一層越えているかもしれない。学問と見識においては佐久間は抜群だったが、現時に臨んでは「此の勝先生とひどくほれ申し」た。

摂海(=兵庫)へ外国船が迫った時の策を尋ねたところ、いかにも「明策」だった。只今、外国人も幕吏を軽侮しているため、幕吏の談判では成功しがたい、いずれ、「明賢の諸侯四・五人も御会盟」になって外国艦を打ち破ることが可能な兵力で、横浜・長崎の両港は開き、摂海(開港)については筋を立てて談判し、きちんと条約を結べば「皇国」の恥には成らぬようになり、異人は却って条理に服し、その結果「天下の大政」も相立ち、国是が定まるとの議論で、実に感服の次第である。いよいよそのようなことになれば、「明賢候」が(京都に)御出揃うまでは、(勝が)受けあって、異人を(摂海に来ないように)引き留めておくとの説である

これについては、今よりそのような議論を立てれば決まって破れ、(幕府も諸侯)離間の策を用いることは疑いがないので、摂海に異人が迫った際に初めてこの策を唱え出して急速に決しなくてはなるまい。「一度此の策を用い候上は、いつ迄も共和政治をやり通し申さず候ては相済み申す間敷候」なので、よくよくご勘考下されたい。もしこの策を御用いにならなければ、断然と「割拠」の色を顕し、(薩摩藩のみの)富国の策に出なくてはすむまいと存じ奉る。しかしながら、順序を言えば、征長のところが第一の訳であり、(征長を)促し立て、油断は致さぬので、左様ご納得いただきたい。

昨朝は肥後藩((※1))と面会したところ、肥後・薩摩の両藩で征長を願い出、勅許を得て速やかに討つべきとの議論があった。「私方にては頓と諸藩の受も宜」くないので、肥後さえ御引き受けになるなら、肥後次第でいかようとも致そうと、すぐさま同意したところ、(肥後だけで引き受けることには)色々難しい故障を言い出した次第である・・・いまだ本気のものかは分からない。摂海異船処置の議論は、本文勝の策に同意との話である。御国許(=薩摩)にも肥後から御使者が参ったそうだが、どういう説だろうか。征長を激しく申したかどうかお知らせいただきたい。


〇(軍資金のこと、生糸買い占めのことなど)
(※1)11日、勝と面会した長谷川仁右衛門のこと?「長谷川仁右衛門京地事情書」によれば、長谷川は、13日に着京すると、「有志大名御集合」の件で、西郷・村田巳三郎らと打ち合わせている(なお、長谷川から越前藩・薩摩藩の話をきいた京都留守居の上田久兵衛は、長谷川の両藩を称賛ぶりに呆れている(9月15日付上田久兵衛書簡))。なお、長谷川は、将軍進発を促す藩主の建白書を持参し、京都・江戸で周旋するために出張中。14日には上田とともに近衛忠煕、守護職、大目付永井尚志を周り、さらに阿部老中と・越前藩(酒井十之丞)を訪ねており、16日に京都を出発し、江戸に下る予定。(「伊達家雑録」『稿本』/綱要DB 9月9日 No16)。

<ヒロ>
この手紙の「共和政治」は、勝のいう諸侯会盟による国是決定の策(ピンク部分)を受けているものなので、勝自身がどういう説明をしたのかはちょっと不明です。同じ会談の模様を、吉井幸輔が大久保に書き送っているそうで、それには、<大久保越州(一翁)、横井(小楠)、勝などの議論は、長州を征伐し、幕吏の罪をならし、天下の人材を挙げて公議会を設け、公論をもって国是を定めるべしとの論である>と書かれているそうです(大久保利通関係文書にのってるらしいです。GETしたい・・・)。これは、春嶽の論でもあり、越前藩は、文久3年6月には(政治顧問横井小楠の主導で)、挙藩上京して、朝廷に(1)外国公使を交えた朝幕要人の京都会議による「至当条理」に帰する開国鎖国の国是決定、(2)朝廷の裁断権・賢明諸侯の大政参加・諸藩からの人材登用,を言上する計画だったくらいです。吉井も、当時、村田巳三郎と連携して、越薩同時上京による政変決行実現のために走り回っていたので、青山・堤・吉井にとってはなじみのある話です。計画が未発に終わった分、三人は盛り上がったかも・・・。(関連:■越前藩の挙藩上京計画(越前・薩摩提携による政変計画)

西郷は、この「共和政治」は継続させねばならないと主張していますが、もしだめなら「割拠」して薩摩藩のみの富国強兵を進めるべきだとも提案しています。ただし、征長が先だともいっていて、まだまだ征長にはやる気をみせています。

それにしても、西郷って、好き嫌いがわかりやすいです。茂昭は「越公」だけど慶喜は呼び捨てです(慶喜に対してはここのところずっとです)。

西郷吉之助(隆盛)は国許の大久保一蔵(利通)にさらに書を認め、外国艦の開港交渉のための摂海来航の噂を伝え、明賢諸侯集会による交渉実現の根回しをしていることを知らせました。
今朝、越前藩堤五一郎が参り、横浜から異船が当月9日に出帆し、摂海へ参って談判しようと幕府に交渉したが、一向に「取り占り」がないと知らせてきた。(外国は幕府を)「余程見限り候景気」のようだ。既に「明賢諸侯御集会」によって「皇国」の御恥とならぬよう、「屹と致したる談判」(=きちんとした条約交渉)をしたいものだと評議もあり、越前・肥後は皆同論だが、阿部閣老・一橋慶喜辺りの模様が分からないため、懸命に下ごしらえをしているので、御得心していただきたい。異人の手を離れれば「幕奸」も手段が尽き果て、必ず「天下の大政」が実現するだろう。この一機会大事の場合である。追々、様子次第で急飛脚で申し上げるが、何分、早く蒸気船一艘は御遣わしになるよう御周旋を願いたい。

<ヒロ>
実際に「下ごしらえ」を担当しているのは、元々、諸侯会議による国是決定や公議公論を藩論としていた越前藩ですよね。こんな資料もあります↓
昨日(13日?)大島吉之介・村田巳三郎へ参り話し合いの様子が大いに進み、村田も大いに喜び、吉之介も早々藩内で熟談すると帰って行った。村田の話では、上は朝廷、下は越前・薩摩が、その儀を「急決」したが、一橋公へは元春嶽公・大隅守様をお好みか計り難く、そのところは阿部閣老より十分に御説を破る御氷解に到らなくてはなり難いと、今朝(14日?)、越前藩諸有志を召し連れられ、閣老へ御出でになった。(長谷川仁右衛門京地事情書)

参考:『西郷隆盛全集』一p396-405、「長谷川仁右衛門京地事情書/伊達家雑録」『稿本』(綱要DB)、『勝海舟』(松浦玲、筑摩書房)p277(2018/6/9)

***(追加)。吉井幸輔の書状ののっている大久保利通関係文書をGETしました。
【京】元治1年9月16日、吉井幸輔は国許の大久保一蔵(利通)に書を認め、去る11日の軍艦奉行勝海舟との対面の様子を報じました。その中で、大久保一翁・横井小楠・勝の長州征伐・幕吏弾劾・公議政体論を伝え、老中阿部正外を後押しして「大変革」を行う案を内々検討していることを知らせました。

当地の因循な形勢は、小蝶丸便で森岡士に申し込んで置いたので、お聞き取りになったはず。その後、勝安房守に大島(=西郷)同道で大坂において面会し、一夜議論をした。越前藩からは堤市五郎・青山小三郎も同伴した。

一、薩越の議論(=打ち合わせ?)では、勝を責付け、関東に下向させ、将軍上洛をはかるつもりだったが、勝は承知せず、関東は「因循臭気」が抜けきらず、ことに近頃は戊午自分の俗吏が出頭(=出世?)し、会藩などにさえ閣老等が面会せず、どこに手のつけようもなく、関東下向は全く無益だと述べた。

一、(勝によれば)このように関東は難しく、夷舟は遠からず摂海に乗り込むに相違ないように切迫しているというのに、「何そ堂々たる大藩断然奮発無之哉」、長征の事などは薩越が請願して御打ちになれば埒があくだろう、越前守様が最近御上京になったなら、是非、請願して御征伐され、もし、これが御出来にならなければ、断然お断り仰せあげられ、御帰国されるほうがよろしいだろう、区々として長く御滞京になり、疲弊を重ねられても無益であると、かえって両藩を責めつけた。

一、(勝によれば)今度、閣老阿部豊後守が上京したが、この人は「随分宜ク一策」があり、その策がどういうものかは未だわからず、予も後から上京するつもりだとの事である。「関東不埒之次第」は色々ある中でも、外国使節(横浜鎖港使節)池田筑後守は仏国において長州をともに打つべしとの約定をなし、印判をおした証書を仏夷に渡したと、仏夷が密かに知らせてきた。これらの事件はことごとく皆京都で申し開かれ、いささかともお隠しになられぬよう申し入れたところ、すべて言上すると阿部は承諾したそうだ。・・・近日、大島も共に拝謁するつもりである。

右につき、越とともにすぐ帰京し、なお評議の予定である。いずれ阿部へ付込み、是(=阿部)を押し立てて「幕吏征伐」と申す場まで至らねば、「大変革」はできぬと内々吟味もしており、大いに愉快なことである。肥藩も長谷川仁右衛門等、四、五人の横井(小楠)派が上京しており、同論である。会藩なども只今に到り、とんと術計も尽き果てている様子。最近、また、江戸へ妻子を人質にとる(と幕府が決めた)事など、実に大変で、これらの処より、会なども平降(=閉口?)しているのではないか。色々面白い事である。

一、大久保越州(=一翁)、横井、勝などの議論は、「長を制シ、幕吏罪をならシ、天下の人才を挙て公議会を設け、諸生といへとも其会に可出願之者ハサッサッと出シ、公議を以国是を定むヘシトノ議ニ候由」、只今、この他に挽回の道はない。

右は大嶋兄(=西郷)からも委細申し上げられるだろうが、見聞きしたことを荒々申し上げた・・・。

***
再啓。 小松君未だ御着京がなく、日々お待ち申し上げている。税所もそろそろ歩行を始めている。

<ヒロ>
吉井が「これしかない」といっている一翁・小楠・勝の議論ですが、公議政体論は彼らのかねてからの議論なので、ともかく、征長については最近の意見ですよね。勝は直接、小楠については長谷川経由で聞いたとして、一翁についてはどこが情報源なんでしょうか。一翁と勝で手紙のやりとりでもしてたんでしょうか?(また気になることが・・・)。ちなみに、一翁は元治1年7月21日、勘定奉行勝手方に任ぜられてますが、その5日後の26日には罷免されています。

西郷は会津藩には全く興味がないんですが、吉井は会津藩のことに2回触れているのも気になるところです。他の手紙はどうなんですかね?今後チェックしたいです(あと、西郷の書状は「もふもふ」がよくでてくるのですが、吉井ってもしかしたら「愉快」「面白い」系かも?)

参考:『大久保利通関係文書』五p341-342(2018/7/28)

>小笠原長行
【江】元治1年9月16日、幕府は、唐津藩世子小笠原長行を赦免し、官位を復旧しました

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