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・9/15【京】御所九門が開かれる ☆京都のお天気:晴(『嵯峨実愛日記』) >越前藩の周旋 ◎対朝廷 ■勝海舟召命 【京】元治1年9月16日昼過ぎ、伝奏野宮定功は、越前藩家老本多修理に対し、軍艦奉行勝海舟の召命について、幕府旗本を直接召すのはよろしくないので、一橋家士に相談後、返答をすると述べました。(本多は、勝の召命理由は、外国事情を聞くためとi言ったそうです)。 <ヒロ> 本多は、前15日、山階宮に参殿して、勝海舟召命を周旋し、宮の賛同を得ていました。なお、肥後藩士長谷川仁右衛門が、15日朝、勝海舟の使者から坂本龍馬の伝言として聞いたところによると、勝の召命については薩摩藩も周旋していたようです。(そして、召命の沙汰が出たら龍馬は16日に上京する予定だったとか)。海舟、上京する気まんまんです。 ■有志諸侯会議による国是決定 【京】同日、内大臣近衛忠房は、越前藩家老本多修理に対し、有志諸侯会議による国是決定について、上書・建言は、実際に摂海に迫るまで待ち、その間、薩・越・宇和島・土佐あたりで定策を十分練るよう述べました。
参考:『越前藩幕末維新公用人日記』p23、「長谷川仁右衛門京地事情書/伊達家雑録」『稿本』/綱要DB 9月9日 No16)。 ◎対老中阿部正外 【京】元治1年9月16日8ツ(14時頃)、征長副将・越前藩主松平茂昭は、12日に上京した老中阿部正外を訪ね、徳川慶勝の征長総督拝任の有無及将軍の進発期を問いました。(本多修理・酒井十之丞が同行) ■征長総督・将軍進発 阿部老中は、総督問題については、慶勝の上京後に一橋慶喜とともに請けるよう尽力すると述べ、将軍進発についても、当月(9月)下旬には発途になるとの見込みを示しました。
■横浜鎖港・兵庫開港問題 また、阿部老中は、征長成功後に将軍が長期に滞坂し、諸侯を集めて「断然」国是を決定するはずなので、そのときには春嶽に是非上京してほしいと願いました。
ただし、阿部老中は、勝海舟の召喚についてはそのうちにと保留しました。
◎おさらい (老中阿部再上京) 阿部は、7月末に将軍の使者として天機を伺うために上京しましたが、一橋慶喜に説得され、将軍急速上洛・征長指揮を促すために、会津藩公用人野村左兵衛らを伴って、海路大坂より帰府しました(こちら)。しかし、24日に横浜鎖港問題等を報告するために再度上京を命じられ、30日に品川出港しました(こちら)。阿部の上京について、会津藩江戸家老上田一学は9月4日付の京都への手紙の中で、表向きは外国の処置についての言上だが、その実は開港の見込みであると記しています。なお、別書で、野村左兵衛は諸侯会議による閉鎖決定(開国やむなし)を進言しています(こちら)。阿部は、海軍操練所の軍艦で9月9日に着坂(こちら)。12日に入京しました。(軍艦奉行勝海舟には9日、11日に面会こちら)。 (茂昭の動き) 幕府は、8月4日、幕府は、茂昭に副将を命じ(こちら)、越前藩はこれを請けました。茂昭の出陣を19日とし、その事前準備として、慶喜や在京老中に軍事に関する廟議を確認し、紀州藩等の討手の諸藩と協議などを行うために、中根雪江を京都に派遣しました(こちら)が、16日、征長総督交替の知らせが届いたので(こちら)、茂昭の出発を一時見合わせ、名古屋に使者を派遣して軍務を協議させることにし、21日には改めて28日の出発を布達しました。ところが、27日、名古屋へ差し向けた使者が戻り、慶勝が病を理由に総督を辞退したため協議はできないとの返答だったと復命しました。茂昭が出陣しても、肝心の総督がいなくてはしょうがないとの議論もありましたが、既に諸藩に追討の命が発された今、たとえ総督が未定であるにせよ、副将までが出陣を遅らせては諸軍の人心に影響するとの議論もあり、やはり、予定通り出発し、上京の上、一橋慶喜や在京老中に「厳談」することに決し、28日に福井を出立していました。 茂昭は9月6日に着京(こちら)。翌7日に禁裏守衛総督一橋慶喜・老中稲葉正邦を訪ねると、総督確定・将軍上洛を説きました(こちら)。8日、越前藩重臣は、会津藩の働きかけもあり、江戸に使者を送って将軍上洛を建議することを決めましたが(こちら)、その前に慶喜の内意を確認することとし、9日、藩士本多・島田が慶喜を訪ねました。用人黒川嘉兵衛が応対し、建議は「大いに然るべし」と賛同しましたが、同じ日、一橋邸で行き会った永井は将軍進発が近いと話ました(こちら)。そこで、10日、中根が黒川を訪ね、確認したところ、黒川は関東のいうことは信用できないので、将軍上洛建議をすすめるよう促しました(こちら)。こうして将軍進発建議が決まった越前藩は、軍艦奉行勝海舟の協力を求めるために、青山小三郎・堤五一郎に茂昭の直書をもたせ、神戸へ向かわせました。(その際、茂昭の着京以来、越前藩に征長副将による出陣を働きかけていた薩摩藩(西郷吉之助・吉井幸輔)も同行)。勝海舟は江戸の事情に鑑み、将軍進発周旋の尽力は無益だと断りました。一方で、外交問題については、有力諸侯会盟による国是決定・条約交渉を論じました(こちら)。 (春嶽の動き) 禁門の変後、一橋慶喜ら在京勢は、当初、春嶽を征長副将とすることを考え、上京を要請しましたが、春嶽は病を理由に固辞しました。8月中旬、春嶽は書を橋慶喜及首席老中水野忠精に送り、将軍が上洛し、諸侯を闕下に集めて開鎖の議を決し国是の根本を確立すべきと建議しました(8/15) <ヒロ> 近衛忠房・阿部老中が、ともに、諸侯会議や国是決定に理解を示しながらも、今はそのときではないという共通認識なのがおもしろいですね。 阿部が春嶽の上京を望んだのは、8月中旬の慶喜・水野老中への建議にもあるように、将軍上洛の上での諸侯会同による国是決定というのはかねてから彼の唱えるところだからだと思います。ちなみに、慶喜は、9月10日付の春嶽への手紙の中で(春嶽の意見は)「一々御尤千万」であり、将軍が進発して上坂ということになれば、尽力周旋の致し方もあると考える、と述べています。阿部老中のいった「半年カ一年ニ渉リテモ大坂ニ滞在セラレ断然国是をサダメラルルナルヘシ」というのは、阿部と慶喜と話した結果、でてきたことなのかもですね?ただし、越前藩は、この春の朝議参豫会議をぶち壊しにした慶喜のことがよほどのトラウマになっている様子です。そりゃそうですよね。(関連:■参豫会議(朝廷参豫会議、二条城会議 参豫会議解体:慶喜/幕閣vs久光・春嶽・宗城))。 勝海舟は阿部老中を称賛しているのに、阿部は「そのうちにね」とつれないです。 それにしても阿部が二度もいった「ヲッパッテ」ってなんていう意味でしょう?前後関係からは頑張るみたいな意味? 参考:「枢密備忘/征長出陣記」『稿本』(綱要DB 9月16日条No 4)、『続再夢紀事』三p311、『越前藩幕末維新公用人日記』p18-20、『勝海舟』(松浦玲、筑摩書房)p268(2018/6/9) >薩摩藩 【京】元治1年9月16日、西郷吉之助(隆盛)は国許の大久保一蔵(利通)に書を認め、去る11日の軍艦奉行勝海舟との初対面の様子を報じ、「共和政治」をやり通す必要を力説しました。 ※9月11日(こちら)で一部紹介した手紙です(青字部分が新しい部分。段落わけはてきとう)
<ヒロ> この手紙の「共和政治」は、勝のいう諸侯会盟による国是決定の策(ピンク部分)を受けているものなので、勝自身がどういう説明をしたのかはちょっと不明です。同じ会談の模様を、吉井幸輔が大久保に書き送っているそうで、それには、<大久保越州(一翁)、横井(小楠)、勝などの議論は、長州を征伐し、幕吏の罪をならし、天下の人材を挙げて公議会を設け、公論をもって国是を定めるべしとの論である>と書かれているそうです(大久保利通関係文書にのってるらしいです。GETしたい・・・)。これは、春嶽の論でもあり、越前藩は、文久3年6月には(政治顧問横井小楠の主導で)、挙藩上京して、朝廷に(1)外国公使を交えた朝幕要人の京都会議による「至当条理」に帰する開国鎖国の国是決定、(2)朝廷の裁断権・賢明諸侯の大政参加・諸藩からの人材登用,を言上する計画だったくらいです。吉井も、当時、村田巳三郎と連携して、越薩同時上京による政変決行実現のために走り回っていたので、青山・堤・吉井にとってはなじみのある話です。計画が未発に終わった分、三人は盛り上がったかも・・・。(関連:■越前藩の挙藩上京計画(越前・薩摩提携による政変計画) 西郷は、この「共和政治」は継続させねばならないと主張していますが、もしだめなら「割拠」して薩摩藩のみの富国強兵を進めるべきだとも提案しています。ただし、征長が先だともいっていて、まだまだ征長にはやる気をみせています。 それにしても、西郷って、好き嫌いがわかりやすいです。茂昭は「越公」だけど慶喜は呼び捨てです(慶喜に対してはここのところずっとです)。 西郷吉之助(隆盛)は国許の大久保一蔵(利通)にさらに書を認め、外国艦の開港交渉のための摂海来航の噂を伝え、明賢諸侯集会による交渉実現の根回しをしていることを知らせました。
<ヒロ> 実際に「下ごしらえ」を担当しているのは、元々、諸侯会議による国是決定や公議公論を藩論としていた越前藩ですよね。こんな資料もあります↓
参考:『西郷隆盛全集』一p396-405、「長谷川仁右衛門京地事情書/伊達家雑録」『稿本』(綱要DB)、『勝海舟』(松浦玲、筑摩書房)p277(2018/6/9) ***(追加)。吉井幸輔の書状ののっている大久保利通関係文書をGETしました。 【京】元治1年9月16日、吉井幸輔は国許の大久保一蔵(利通)に書を認め、去る11日の軍艦奉行勝海舟との対面の様子を報じました。その中で、大久保一翁・横井小楠・勝の長州征伐・幕吏弾劾・公議政体論を伝え、老中阿部正外を後押しして「大変革」を行う案を内々検討していることを知らせました。
<ヒロ> 吉井が「これしかない」といっている一翁・小楠・勝の議論ですが、公議政体論は彼らのかねてからの議論なので、ともかく、征長については最近の意見ですよね。勝は直接、小楠については長谷川経由で聞いたとして、一翁についてはどこが情報源なんでしょうか。一翁と勝で手紙のやりとりでもしてたんでしょうか?(また気になることが・・・)。ちなみに、一翁は元治1年7月21日、勘定奉行勝手方に任ぜられてますが、その5日後の26日には罷免されています。 西郷は会津藩には全く興味がないんですが、吉井は会津藩のことに2回触れているのも気になるところです。他の手紙はどうなんですかね?今後チェックしたいです(あと、西郷の書状は「もふもふ」がよくでてくるのですが、吉井ってもしかしたら「愉快」「面白い」系かも?) 参考:『大久保利通関係文書』五p341-342(2018/7/28) >小笠原長行 【江】元治1年9月16日、幕府は、唐津藩世子小笠原長行を赦免し、官位を復旧しました。 関連■開国開城「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■テーマ別文久3第2次将軍東帰問題&小笠原長行の率兵上京 |